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なくしたもの

まだ、下仁田ねぎが畑にあった1月下旬の話。
下仁田ねぎを収穫するため掘っていたら、白い破片が出てきた。
昨年夏に購入した手押し式草刈り機のブレード(草を刈るプラスチックの刃のようなもの)の、外れてどこかに消えていた一枚だった。※下記リンク先参照
こんな具合に、畑で紛失したものはやがて畑から出てくることが多い。

たとえば、画像のノコギリ鎌、草取りか中耕のときになくしてしまい、ないと仕事にならないので、左の取っ手に赤いゴムのついたノコギリ鎌を買った。
買ったらその後(半年とか一年後とか)、畑の耕耘作業などでノコギリ鎌が立て続けに出てきた。
真ん中の一本は、取っ手部分が耕耘時に削られてちょっと破損していた。
一本新しく買ったら、古いやつが2本出てきて、結局、今は3本もある。1本あれば十分なのに・・。
さて、ほかにも畑でなくしたもの・・・、って考えたとき、パッと頭に浮かんだのは、膨大な時間だった・・・。
まぁ、時間の場合、”無くした” ではなく ”失くした” だけれど、言葉にしたら同じ発音だから、畑につぎ込んでいる時間の長さがすぐさま思い浮かんだのだ。
さらに言ってみれば、時間は、”失った” というより ”費やした” の方が適しているかもしれない。
それに自分の場合は、汗や血 (事故のとき)、涙 (悔し・うれし)、怒りや嘆きの感情・思い、歴史が畑にしみ込んでいるって感じ。
だから、畑から(時間が出てくればもちろんうれしいが)、ちょっとした希望が出てくるとうれしい。

と書いたら、なんだかきれいにまとまった感じになって、すこしばかり気恥ずかしいので、お茶を濁すように付け加えれば、やっぱり畑からは大判小判がザクザク出てくるのがいいのかな(古典的だけど)。

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Posted in 百姓二揆(ヒャクショー・ニッキ)

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