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ルワンダとゴーシュと戦争

 

現在、朝トイレで、服部正也著 『 ルワンダ中央銀行総裁日記 』 を3ヶ月くらいチビリチビリ読んでいる (もうすぐ終わる)。
夜は夜で、『 わたしは 「セロ弾きのゴーシュ」 ~中村哲が本当に伝えたかったこと 』 をポツリポツリ読んでいる (もうすぐ終わる)。

たまたま選んで買って (購入時期は別)、たまたま朝夜べつべつに読んでいたわけだけど、あるとき気づいた。

どちらも、辺境の土地 (発展途上国) で奮闘、地域を発展させ光を与えるも、その後、前者は内乱 (ルワンダ動乱) が起き、後者は銃撃で死去。

考えたら、在京の頃の一時期、田舎に住む親の最後を見届けたら、どこかの発展途上国に行って、無私になってなにか手助けして生きてゆく人生にあこがれたというか、そういうことができる人をうらやむ気持ちを持ったことがあった。

で今、大雑把に言ったら、自分も辺境の地で悪戦苦闘しながら暮らしているが、中身は (中村哲氏のアフガンにくらべたら) 別世界だ。
 

――さて、『ルワンダ中央銀行総裁日記』 には、1994年のルワンダ動乱をめぐる一文を加筆・増補していて、その中の一部分を読み、思わず考え込んでしまった。

その箇所を書き出してみると、


最後に、今回の事件 (94年の動乱のこと) でもわかるように、世界はいまだ力が支配していることを痛感すべきで、ただ、「平和、平和」 と一国で喚いても、一人で祈っても平和は来ない現実を直視すべきである。弱者の悲哀は、ルワンダの惨状がまざまざと見せつける。また、国連憲章にもかかわらず、大国は気が向けば適当な大義名分を掲げて、武力で他国を攻撃することや、自分が気に入った他国の党派に直接に、または第三国をつうじて、武器を供給することが公然と行われているのが現実なのである。(中略)
平和、平和と叫ぶよりは、戦争は必ず起こるものとして、その被害を局限するための自衛策をとり、また、小国の争いでは犠牲を限定するため、武器輸出禁止を大国間で合意すべきであろう。

20年前くらいに書かれた文章だけれど、そのまま現在のロシアのウクライナへの武力侵攻に当てはまる。

この20年、自分は大きく変わった。(環境的な意味が大きいけれど)
この20年で、差別的な規制、男女間の職業名称、ジェンダー等、思いつくことだけでもずいぶん変わった。

しかし、戦争に関して、世界は何も変わっていないことに、もう 「戦争反対」 と叫ぶよりも、文中にある通り、戦争は必ず起こるものとして、自分はどうしよう、どう考えよう、隣国が武力侵攻してきたら・・・、自分にできることとは・・・、と朝っぱらからトイレのなかで、いろいろ考えてしまった・・・。

 

 

Posted in キオクのキロク

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