画像の真ん中は、咲き方をまちがえた?下仁田ネギの花 (ネギ坊主) だが、
わたしも、「下仁田ねぎぼうず園」 における PR の仕方、
アプローチの仕方をまちがえてしまったのかもしれない。
わたしも、「下仁田ねぎぼうず園」 における PR の仕方、
アプローチの仕方をまちがえてしまったのかもしれない。
(前日の記事のつづき)
◇
「方向が正しければ、いつかはものになる」
ホンダの影の創業者、藤沢武夫氏が好んだ使った言葉に支えられながら、
できうるかぎり客観的に 「下仁田ねぎぼうず園」 を考えてみる。
できうるかぎり客観的に 「下仁田ねぎぼうず園」 を考えてみる。
やはり、税金人員タップリ使っているフラワーパーク系にくらべると、圧倒的に弱い。
いくら自前の資金で ほぼひとりでやっているとはいえ、
目に見える範囲に収まってしまう程度では、スケールが出ない。
いくら自前の資金で ほぼひとりでやっているとはいえ、
目に見える範囲に収まってしまう程度では、スケールが出ない。
「山の上のちいさなネギの花畑、風景まるごと楽しんで!」 というメッセージが通じないのなら、
来園者目線になって、もうすこしボリュームを出さねばならない。
来園者目線になって、もうすこしボリュームを出さねばならない。
幸いにも、畦を挟んだ右隣りの畑も、ウチで借りている畑だ。
ということで、
3年目の修正ポイントはネギ坊主のボリュームを出すことで、
頭の中がまとまりつつあった。
3年目の修正ポイントはネギ坊主のボリュームを出すことで、
頭の中がまとまりつつあった。
◇
以前、このブログですこし書いたが 、
老父とのコミュニケーションはブッ壊れている。
(他人の考えを理解できない親父と修復は不可能)
老父とのコミュニケーションはブッ壊れている。
(他人の考えを理解できない親父と修復は不可能)
その、自身の考えが万能と思っている頭の硬い老父が、
わたしが目を離したすきにというか、わずか半日ほどの間に、
3シーズン目に広げようと予定していた、「ねぎぼうず園」 の右隣の畑に
サツマイモを植え始めてしまったのだ――。
わたしが目を離したすきにというか、わずか半日ほどの間に、
3シーズン目に広げようと予定していた、「ねぎぼうず園」 の右隣の畑に
サツマイモを植え始めてしまったのだ――。
万事休す・・・。
なんとか “続ける” 方向で気持ちをひっぱってきたが、
頑張りの糸がプツンと切れてしまった。
頑張りの糸がプツンと切れてしまった。
空中分解してしまった気持ちは、
そのまま “続けない” 方向である底の方に墜ちて固まってしまった。
そのまま “続けない” 方向である底の方に墜ちて固まってしまった。
◇
今までどおりの畑で続ければ、という声があるかもしれないが、
続けるにはそれなりのエネルギー・体力を要するし、
毎年、忙しいこの時期に気をもむのはメンタルな部分で非常に疲れる。
続けるにはそれなりのエネルギー・体力を要するし、
毎年、忙しいこの時期に気をもむのはメンタルな部分で非常に疲れる。
だいいち、同じ畑で同じ作物をつくり続けると、連作障害になり、
大きなネギ坊主が出来にくくなる。
大きなネギ坊主が出来にくくなる。
その辺りにある小作りの農家のちいさなネギ坊主など、見せられない。
話題づくりだけではなく (話題としても新鮮味にかけてくる)、
ヒト様を呼ぶのならそれなりに見せられるようなものを造らなければならない。
ヒト様を呼ぶのならそれなりに見せられるようなものを造らなければならない。
◇
わたしは、独りでできることは独りでやるが、
やはり、独りでやれることには限度があるし、
発展、成長させていくことを考えると、行き詰まってしまう。
やはり、独りでやれることには限度があるし、
発展、成長させていくことを考えると、行き詰まってしまう。
だから、自ら行動し 「ねぎぼうず園」 をつくったことにより、
共鳴者・賛同者が現れ、好循環になることを期待した。
共鳴者・賛同者が現れ、好循環になることを期待した。
だが、新聞の一面を飾っても、地元からは特になんのリアクションもない。
わたしは、「補助金 (を使って何かをするの) は甘え」 と考えているが、
共鳴者・賛同者による協力という、他力を期待したわたしの考えも甘かった。
共鳴者・賛同者による協力という、他力を期待したわたしの考えも甘かった。
◇
こころの隅では、続けることに意味があるという気持ちも消えずに残っているが、
ひとまず休もうと思う。
ひとまず休もうと思う。
畑を休ませるためにも、今年はネギを植えないで、
「下仁田ねぎぼうず園」 をひとまず一年、休もうと思う。
「下仁田ねぎぼうず園」 をひとまず一年、休もうと思う。
ネギ植えボランティアの地元高校生には申し訳ないと思っている。
生徒との交流は、年代が大きくちがうから、対応にとても苦心する。
だが、その分、わたし自身も大いに学ぶことができるので、それがちょっと残念だ。
冒頭で、咲き方をまちがえた、と書いたが、
画像の下仁田葱は爆発を表現しているのかもしれない。
画像の下仁田葱は爆発を表現しているのかもしれない。
わたしは、結局、自爆してしまったのかもしれない。
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